novel

溶け合う誘惑

なないろ

波は穏やか、空の様相も悪くない。そんな航行日和の中、ローは1人、とある港町でふらふらと歩き回っていた。
市場に飛び交う歓声と忙しなく行き交う人々の足音に囲まれてゆるりと足をすすめていたローは、ふと、屋台の上のあるものに目を奪われる。それは、表面がきらきらと金色に光り、複雑な模様が描かれている円形の薄い金属。この港町限定の記念コインだ。
思わず伸ばした手がコインに触れる、その間際。
「そんなもんが欲しいのか?」
突然耳元で聞こえた低い声に、ローは勢いよく振り向き様、鞘に収まったままの鬼哭を振り上げた。背後に立っていた男はその一振りを、葉巻を指先に挟んだ右手で器用に受け止める。
「いきなり……ずいぶんな挨拶だな」
男の言葉に、ローはむすりと顔をしかめて言い返す。
「人の背後に気配を消して立つ方が悪いだろ」
「殺気でも出せば満足か?」 「普通に声を掛けろと言ってるんだ」
黒いコートを風に靡かせて立つ男、サー・クロコダイルに、ローは呆れ顔でため息をついた。そして、グッと強く引いても動かない腕と顔を掠める煙に、相手を睨みつける。
「いい加減、手を離せ」
クロコダイルは言われるがまま、大人しくパッと手を離す。解放された鬼哭を肩に抱え直し、ローは男を見つめて「それで?」と首を傾げた。
「今度は一体、何の用だ」
問いかけるローに、クロコダイルは葉巻を咥えながら答える。
「なに、また少し……付き合ってもらおうかとな」
また、という言葉に、ローは怪訝そうに眉をひそめた。
つい先日ローは、祭り屋フェスタとダグラス・バレットが企んだ祭典"海賊万博"にて、クロコダイルと初めて顔を突き合わせた。それまで、元"王下七武海"であることや、アラバスタ国家略奪を企てた重罪人であることは新聞からの情報で知っていたが、実際に男と対面したことはなかった。それがなぜか、相手は初対面にも関わらずローの能力を知っており、しかも突然同盟を結べ、付き合えと一方的に言われ、仕方なく手を組んだ。
それからだった。クロコダイルは偶然ローのいる島に現れたかと思えば、こうしていきなり「付き合え」と誘い、気まぐれに何処かへと連れて行く。
「前回は酒場、前々回は本屋、それで今度はどこだ?」 「先に返事だ」
強い口調で言うクロコダイルに、ローはしばらく押し黙ったが、やがて、ふっと表情を緩めた。
「まあいいぜ、どうせ暇だからな。あんたに付き合ってやるよ」
頷いたローはしかし、突然近づいたクロコダイルの顔に口を引き結んだ。鼻先が触れそうなほどの距離に迫った男に、ローは咄嗟に目を瞑って固まる。
クロコダイルはするりとローの後ろに手を伸ばし、屋台に紙幣を置いて、彼が見ていた記念コインを手に取った。
「釣りはいらない」
そう言って男は、未だ固まったままのローの手に記念コインを押し付けると、彼の腰に腕を回して横向きに抱え上げた。突然ぐらりと揺れた視界に、さすがにローもハッと正気に戻る。
「おい、降ろせ!」 「暴れるな。街中だぞ」
手でクロコダイルを押して突き放そうとするローに、彼はフーッと葉巻の煙を吹きかけた。
「ゴホッ、ゲホッ……何すんだ、やめろ!」
「ガキには意味がわからねェか」 「なんの話だ」
顔の周りを手で払い、煙をかき消しながらローが聞く。だが、クロコダイルはその問いには答えなかった。
「わざわざ聞かないでおいてやろうと思ったが……、さっき、なんでお前は固まったんだ」
その言葉に、ローはぎくりと動きを止めた。気まずげに彼の顔を見やり、口籠るその様子に、クロコダイルが彼の返答を聞かずとも読み取る。
「キスされるとでも思ったか?」
「そ、そんなわけないだろ! 大体、おれとお前は、そういう関係じゃねェ」
「そういうってのは、どういう関係だ」
「だから! ……恋人とか、そういうのだ」
言いにくそうに小声で返したローに、クロコダイルは首を傾げた。
「違うのか?」 「そりゃお前……へ?」
帰ってきた思わぬ問いかけに、ローの目が見開かれる。だが、クロコダイルはそんな反応に構わず続けた。
「付き合えと、おれはそう言ったはずだが」
「え……いや、ちょっと待てよ……、いつ、どれだ!? 大体お前、"付き合え"なんて今まで何度も言ってただろ! そんな意味だなんて思わねェよ!」
「不満か?」 「不満だ!」
売り言葉に買い言葉、反射的にそう言い返したローに、クロコダイルは「わかった」と頷く。
「なら、もう一度だけ言ってやる」 「え?」 「おれと付き合え、ロー」
ぽん、と吐き出された言葉。今度は意味を間違えようがない。
通りを行き交う人々。賑わう屋台。こんな町の雑踏の中で、クロコダイルは足を止めないし、ローも抱えられたままで、全く、ムードも何もあったもんじゃない告白だ。これならまだ、電伝虫越しに言われた方がマシなくらい。
それでも、ローは見上げた先の男の余裕綽々な笑みと、案外優しそうな、それでいて意志の強い光を放つ瞳に、断ることなんてできないんだ。
「……いいよ」
小さな声で呟かれたそれが、雑踏の中でもしっかりクロコダイルの耳に届いたことは、にやりと弧を描く彼の口元が物語っていた。

^